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「私」という奇妙な存在の哲学 〜 書籍「ウィトゲンシュタイン」

本当はこの世界は自分の頭の中にしか存在しなくて、自分が消えたら世界も消えてしまうんじゃないかって思って、薄ら寒いような気持ちになったことが、こどもの頃にありました。
でも、周りの人と接しているうちにその現実感に浸って、そんな考えはどこかに消えてしまったのですが。

 

「私」と「世界」いう存在の不思議さを論理的に追求したのが、20世紀前半のオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインです。

 

今回ご紹介する「ウィトゲンシュタイン ──「私」は消去できるか」(入不二基義著、NHK出版、2006年)という本は、100ページちょっとの中で、ウィトゲンシュタインが「私」と「世界」について考察した軌跡をたどります。

 

「世界」の中の一部として「私」がいる。これはごく常識的な考え方ですね。これを「素朴な実在論」と呼びます。

 

反対に、「私」の中に「世界」がある。実在するのは「私」だけという、他人に話したら「ちょっと何言ってるのかよくわからない」と言われかねない考え方ですね。これを「いわゆる独我論」と呼びます。

 

この「素朴な実在論」と「いわゆる独我論」をそれぞれ突き詰めて考えていくと、意外にも同じところにたどりつきます。

 

突き詰めた結果としての「純粋な実在論」と「徹底された独我論」は、次の2点において、ぴったり合致しますと書かれています。

 

(1)「世界」の内にあるものは、もの(対象)の組み合わせから成る諸事実だけである。

(2)「世界」の内にも「世界」の外にも、「私」という特別な主体は存在しない。

 

「世界」の中にある「私」という考え方(実在論)に対しては、「私」は、思考も含めて、実際は「世界」を構成する要素の組合せなのだから、魂みたいな「私」という単一の主体は存在しないということです。

 

一方、「私」の中に「世界」がある、逆に言えば「私」は「世界」の外にいるという考え方(独我論)に対しては、「私」は「世界の限界」とぴったり一致しているのだから、外側から包んでいるわけではないのです。
「世界の限界」はちょっと簡単には説明しづらいのですが、世界全体のかたちとでも言うようなものです。

 

結論として、「私」という特別な主体は存在しない、となります。
妙な話ですね。
だって、今ここに私はいるじゃないかって。
ウィトさん、大丈夫かって。

 

ウィトゲンシュタインの考察はさらに進んで、「私」という存在は他者と比較しうるのか、「私」の固有性は言語というものによって巧妙に隠されているのではないか、という論点を解き明かしていきます。
ところどころ理解しにくいところもありましたが、全体的には論理としてはわかる、たしかにそうなる、と読み進めました。
ご興味があれば、本書を読んでみてくださいね。
今ならKindle Unlimitedの「読み放題(0円)」の対象になっています。

 

マインドフルネスを実践すると、思考は私ではなく、この世界の中で移り変わっていくものだととらえるようになるかもしれません。
ではこの「私の思考」に意識を向けている「私」という主体は何なのか。
哲学というアプローチも、その不思議さに光を当てるものですね。

 

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