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気持ちが外に向きすぎると辛くなる

今日の話題なんですけれども、外に向きすぎると辛くなるという話をしようかなって思っていて。

なんでこの話しようかって思ったかというと、僕自身が一時体調を崩したことがあって、それで瞑想を始めることになったんですけれども、体調を崩していた時って、よく考えたら外に正解を求めすぎていたのかなって思ったんですよね。

周りの人の意見を聞いたりとか、いろいろ小回りの環境に合わせようとし過ぎたりとか、自分じゃなくて外に意識が向きすぎたときに、体調を崩してしまったのかなって思うんですよね。

なんで僕そのことに気づいたかっていうと、瞑想合宿に行ったことがあって、10日間ぐらい行くんですけど、基本的には誰とも言葉を交わさずに瞑想をするんです。

この話もまたあの機会があればしようと思うんですけど、今日はちょっとそれは置いといて。最後の日にもう沈黙が解かれて参加者の皆さんと話せるんです。
そこでどうして瞑想を始めたのか、みたいなあの話になるわけなんですよね。
その時に体調を崩して、それがきっかけで瞑想することになったんです、みたいな話を僕がしたら、どうして体調崩しちゃったんだろうね、みたいに聞かれたんですよ、参加者のある方から。

そのときになんか自分の中で自然とやっぱりなんか外に正解を求め過ぎてたからですかねえ、みたいな言葉が出てきたんですよ。
で、自分でもそれが意外だったというか、そうだったのかぁっていうふうに思ったわけなんですよ。

なんか正解正解っていうのを、みんなちょっと求めようとし過ぎてしまう傾向にあるんじゃないかなって思うんですけど、なんか正解ってやっぱ一つではないなって思ったんですよ。

正解って一つではなくって、本当はそれぞれの人にとってあるはずなのに、何か一つに決めないといけないことって社会ではすごい多いんじゃないかなって。

そういうひとつの基準というか、そういうものを求められがちなんじゃないかなって思うんですよ。
一つに決めるっていう事はやっぱりみんながそれに合わせていかないといけないということが多いと思うんですよ。

なのでやっぱりいつのまにか、自分自身の正解というか、そういう言い方が適切かわかんないですけど、まぁそういうものとズレがだんだん生じてきて、内面と外面のずれが生じてきて、体調を崩して言ってしまう方がいらっしゃるんじゃないかなって思ったんですよ。

ちょっと話が抽象的で分かりにくいかもしれないんですけども僕はそんなふうに感じたんですよね。

なので、瞑想っていうのはやっぱり外に向いている気持ちを自分の中に向けることができるのかなって思うんですよ。

たぶん自然とそれを自分が直感したから、瞑想を始めたのかなって思ったんですよね。

瞑想って自分の体の感覚とか、自分の思いや考えとか、今までご注意を向けてもなかったことに向けていく時間を取るわけなんですけども、それがすごい良かったのかなって思うんですよ。

それをすることによって、自分のいま存在している体の感覚ってすごく確かのものの一つだなって思ったんですよね。
なんか正しいことを言ってそうな人の発言であるとか、権威がある人の発言であるとか、社会で決まっていることとかって、本当の正解というよりは、なんかこうもっと抽象的なものだなって思ったんですよね。

でも体の感覚、今存在しているものっていうのはすごく自分にとって確かなものというか、疑いようがないものだなって思って、一旦そこに戻るということができたのかなって思うんですよ、瞑想を通じて。

なので僕は今も瞑想を本質的なもののように感じて、瞑想広めるっていう活動をやることにしているということなんですよね。

今日は抽象的になって申し訳ないんですけども、逆に抽象的だからこそ、皆さんの具体的な例に引っかかる部分も出てくるのかなって思ったので、なんかこんな形で話してみました。

というわけで、今日の話は以上にしたいと思います。

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