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0-2. 第2版のイントロダクション 〜 書籍「マインドフルネスストレス低減法 (Full Catastrophe Living)」

はい、こんにちは!医師でマインドフルネス講師の植田真史です。

今日は前回から読んでいます、こちらの「フル・カタストロフィー・リビング」という本の第2回目になります。

前回は活字でパソコンに打った文字でやってたんですけど、やっぱりちょっと手書きのほうがこのノートで表現できることが増えるかなと思ったし、その方が温かみもあるかなと思ったので、今日は手書きのノートでやってみたいと思います。

じゃあ、本を読んでいきたいと思います。

この本の全体像なんですけども、今は導入部で、もう最初の最初を読んでおります。

全部で36章あるという長い本で、どれくらい時間がかかるかわからないですけれども、週1回くらいアップできたらいいかなと思っています。

よろしくお願いします。

では、前回は序文というのを読んだんですけれども、今回はこちらの第2版のイントロダクションっていうのを読んでいきたいと思います。

で、初版のイントロダクションっていうのもあるんですけど、第2版の方が先に書かれていますので、それを読んで次回か次々回か、初版のイントロダクションっていうの読んでいきます。

第2版のイントロダクションなんですけども、内容が本当に何度読んでも発見があるくらい、深い内容なんですけれども、あえて僕の視点でどんなことが書かれてあるかっていうのをまとめるとするなら、こんな感じかなと思いました。

「改訂の意図」ですね。前回から25年経ってるんですけど、改訂するにあたって著者が意図していたこと、あるいは気をつけたことなどが書かれてます。

「フル・カタストロフィー・リビング」というタイトルについても触れられています。

そして、あのマインドフルネスについて、強調したいことというか、大切なことっていうのが触れられているんですよね。

これは僕なりに、2つキーワードを抽出すると「全次元性」という言葉と「ハートフルネス」という言葉をピックアップさせていただきました。

最後に、研究成果紹介というのがいくつか並んでいました。

というわけで、さっそく改訂の意図のところからお話していきたいんですけども、僕なりにまとめさせていただきますと、まずは瞑想の方法とか、プログラム内容とかの説明を洗練させるって言うのが、一つの目的であったといういうことなんですよね。

あとは科学研究の進展を受けて、ということで前回の版から25年くらい経過してますので、その間にいろいろと本当に目覚ましく科学研究が進んだんですよね。

それに関する記述もちょっと充実させるという意味があって、改訂をしました。

もう一つなんですけれども、これは意図というか、注意したことという感じなんですけども、著者は科学研究は確かに進展して、紹介するに値するものがたくさんあるんだけど、あくまで実践的なガイドとして、この本を書きましたということなんですよね。

あくまで人生のさまざまな具体的なことに対処するガイドブックとして使ってほしい、という思いは一貫しているようです。

基本的なメッセージは不変ですよと、改定したけれども初版と伝えたいことは変わってませんよ、ということでした。

あくまで実践的というのは、序文のところからも伝わってくるところかなと思いますので、もしよろしければ前回見てない方は見てみてください。

というわけで、どんどん行って申し訳ないんですけども、次にタイトルについてというところを触れてみたいと思います。

この「フル・カタストロフィー・リビング」っていうタイトルに関して、このカタストロフィーという言葉は、辞書的には災害とか惨事とか破局とか、そういう意味があるようなんですよね。

でも著者の文脈では、カタストロフィーっていうのは、人間が生きているとさまざま出くわす、あらゆる悩みや苦しみのことを言っていると思うんですよね。

なかには人間関係のストレスもあったりとか、けがでの痛みがあったりとか、病気に悩まされたりとか、災害に見舞われたりとか、ここに挙げきれないほど、人それぞれのカタストロフィーがあると。

時には避けることのできないことを経験せざるをえないときもあると。

そういうのを総称して、この文脈ではカタストロフィーと呼んでいると思うんですよね。

もともと筆者はこのMBSRというプログラムを、病院の中で始めて、そこには様々な患者さんが紹介されてくるわけですよね。

体の病気で悩んでいる方も、痛みで悩んでいる方も、そして人間関係のストレス、仕事のストレスなどで悩んでいる方も、いろいろな方が紹介されてくる。

そういった方々がMBSRのプログラムで、マインドフルネスの実践をしていくにしたがって、その悩みや苦しみとの関係性が変化していくのを、ジョン・カバットジンが間近に見てきたというわけなんですよね。

なので、この本はそういった経験も踏まえて、カタストロフィーがさまざまありながらも、どんなふうに生きていくのかと、そういうことについて書かれた本であると言っていいと思うんですよ。

というわけで、ここにカタストロフィーという言葉が入っています。

この「フル・カタストロフィー・リビング」というタイトルを、ジョン・カバットジンがつけようと思ったときに、出版社の人から反対されたらしいんですよ。

この「カタストロフィー」とかいう大げさな言葉が入っていると、みんな手に取らないんじゃないかと言われて、いろいろと代案を考えたらしいんですよ。

そのなかには中には、例えば「注意を向ける:マインドフルネスの癒しの力」とか、こういうのがあったらしいんですけど、でもやっぱりジョン・カバットジンの頭の中には「カタストロフィー」という言葉が何度もめぐってきて、結局「フル・カタストロフィー・リビング」っていうタイトルにしたそうなんですよ。

ここで、タイトルの中からカタストロフィーという言葉を排除せずに、タイトルの中に含めてしまったっていうのが、すごく象徴的だなと思っていて。

どういうふうにカタストロフィーとの関係性をつくっていくかということを、このタイトルの構造が象徴しているような気がしました。

先ほど述べた患者さんのエピソードとか、このカタストロフィーという言葉についての追加のエピソードは、初版の前書き、イントロダクションの方にも触れられていますので、そちらの方で、もう一度紹介したいと思います。

それでは、次のパートに入っていきたいと思います。

マインドフルネスについて強調したいこと、ということで、実際にこのパートがあるわけじゃないんですけども、僕なりに整理して、この2つのキーワードを紹介したいと思います。

「全次元性」と「ハートフルネス」。

これが重要かなと思ったので、ピックアップさせていただきました。

全次元性って、なかなかとっつきにくい言葉だと思うので、僕なりにちょっと解釈してみたいと思います。

先ほども言ったように、著者のクリニックにはさまざまなカタストロフィーを抱えた方々がやってきて、マインドフルネスの実践をされます。

それで、そのカタストロフィーからの癒しを軽減したりとか、カタストロフィーの変容を経験したりっていうのを、著者は間近で見てきたわけなんですよね。

多くの方がそういった経験をされるのを見てきたというわけで。

ではどうしてそのマインドフルネスの実践をすると、癒しや変容を経験するのかということを考えたときに、生命の貯水池っていうのが一つの大切な概念になるわけなんですね。

生命の貯水池っていうのは何かというと、人それぞれがそれぞれの中に生まれつき持っている癒しの源のことをそう表現しているんですよ。

癒しの源を持っている、その可能性を持っていると。

ただ、この生命の貯水池っていうのは、多くの人が気づいてないと。

その生命の貯水池が自分の中に備わっていることに、気づかずに生活している、ということなんですよ。

でもその生命貯水池になんらかの方法で気づいて、アクセスできたときに、このカタストロフィーからの癒しや変容などを経験する、というふうに書いてあるんですよね。

僕なりに要約すると、生命の貯水池に到達するにはどうすればいいのか、という話になると思うんですよ。

そうすると、それは全次元性っていうのを体験あるいは体現するということが、生命の貯水池に至る方法であると書いてあるんですが、僕なりに解釈すると、この全次元性という言葉はわかりにくいと思うので、図にしてみたんですよ。

全次元性は”full dimensionality”と英語で表現されていて、dimensionっていうのが次元っていう意味なんですよね。

この次元っていう言葉を手掛かりに、僕なりに考えたんですけども、次元って聞いて一番最初に思い浮かんだのが、2次元とか3次元とかいう座標軸なんですよね。

例なんですけど、たとえばここに生き物がいて、この人は二次元の世界で生きているんです。

いつもこの平面の上で、あっち行ったりこっち行ったりしているわけなんですね。

この人は2次元の平面の上で過ごしてはいるんですけれども、自分が2次元の平面の上で過ごしているということにまったく気づかずに日々生活しているわけなんです。

ただ、なんらかのきっかけで、この人がもし自分は実は3次元の世界に生きてるんだって気づいたとしたら、どうですかねえ?

どうですかといってもおかしな話ですけど(笑)、実はもう一つ別の次元があったんだということに気づいたら、すごく可能性が広がると思いませんか?

今までこのxとyのこの平面の上でしか動けていなかったのに、こっちに行ったりもできるようになるし、あっちから来たりもできるようになる、みたいな感じで、すごく可能性が広がるというわけなんですよね。

ちょっとわけわかんない例えかもしれないですけれど(笑)、これはあくまで例えで、私たち人間も似たようなことを経験するんじゃないか、ということなんですよ。

例えばこのxとyっていうのが、こういう数学的な座標軸じゃなくて、自分を自分なりに評価している評価軸だと思ってください。

例えば社交性が自分はこれぐらいだとか、英語をしゃべる能力が自分はこれぐらいだとか、

気が利く能力がこれぐらいだとかいうふうに、自分なりに自分に対してのその評価軸をいろいろと作って、我々って生活していると思うんですよ。

でも、ふとなにかのきっかけで、あ、自分はこういうふうな評価軸の中で、自分でその評価軸に自分を収めて生きてたけど、本当は別の見方もあるんじゃないか、とかいうことに気づくっていうことって、あると思うんですよね。

それがここでの例えでいう、2次元に住んでた生物が、3次元に実は自分は住んでたんだって気づくっていう例えで、表現したかったことなんですけど。

マインドフルネスの実践をしていくと、こういうことを経験するんじゃないかと思うんですよ。

今まで自分って、あっこういう評価軸で生きてたんだとか、こういう自分で作り出した世界の中で生きてたんだっていうことに気づいて、もっと新たな見方とか、人生に開けていくということを経験する、ということだと思うんですよね。

さらに言うと、今この生物は2次元から3次元っていうだけでしたけれども、もっと多くの評価軸というか、見方の軸があっていいと思うんですよね。それこそ無数にあっていいと思うんですよ。

なので、マインドフルネスの実践を通じて、いままで自分が思いもしなかったような方向の軸に気づいたりとか、あるいはもうそんな軸をすべて取っ払ってしまって、このありのままの存在自体を直接感じる、ということを経験するということが、全次元性っていう言葉に込められた、一つのニュアンスなんじゃないかなって、僕は思いました。

ちょっと訳わかんないこと言ってるな、という感じかもしれないんですけど、僕なりになんとか言葉にしたら、こんな感じで。

この話題は長くなりそうなので、次に進ませていただきたいと思います。

ちょっと紹介しておきたい文章があるんですよ。

この全次元性ということに絡めて、大切だなって、すごくいい文章だなって思ったので、引用するんですけども。

“as long as you are breathing, there is more right with you than wrong with you,”

ていう文章なんですよね。

直訳すると、あなたが息をしている限り、あなたには間違っているということよりも、正しいということのほうが多くありますよ、という直訳になると思うんですけれども。

なんかちょっと堅苦しい訳ですよね。

このrightとwrongっていう2つの言葉。

正しいこと、間違っていることっていうよりも、僕なりにはこうかなと思うんですよね。

rightというのは、生命の貯水池、癒しの源泉のことかなと。

で、wrongっていうのはカタストロフィーのことかなって思うんですよね、今の僕は。

なんらかのカタストロフィーにいくら見舞われたとしても、あなたにはそれよりも多くの、それを包むだけの生命の貯水池が備わっているよ、ということを言いたいのかなと思ったんですよ。

なので、これはすごく深みのある文章だなと思いました。

別の感じ方をする方もいらっしゃると思うんですけれども、僕なりにはこういうふうに感じました。

この第2版のイントロダクションの中では、有名なマインドフルネスの定義という言葉が紹介されているんですよ。

「意図的に、今この瞬間に、判断せず、注意を向けること、またそれによって生じる気づき」っていうのが、よくマインドフルネスの定義として出てくる言葉なんですけれども。

そういう態度で注意を向ける練習をしていく、ということによって、先ほど言ったような、新しいものの見方、新しい軸で自分を捉えたりとか、あるいはもう時にはその全ての軸を取っ払って、自分そのものを感じ取るということをやっていくことができるようになると。

この練習をすることによって、注意力、何か特定の、自分が意図したものに注意を向ける力、あるいはそれを持続させる力だったり、識別力ですね、観察している対象をありのままに正確に感じ取る力っていうのが培われていって、それによって全次元性に至ることができる準備が整っていくと。

こういう文脈で、こういう言葉が紹介されていました。

注意力と識別力を鍛えていくっていうところなんですけれども、それってけっこうマインドフルネスの文脈でよく言われることだと思うんですよね。

マインドフルネスがいろんなところで紹介されるときに、注意のコントロールをしていきますよとか、より物事をはっきり見ることができるようになりますよとか、そういうことをよく言われると思うんです。

けれども著者がここで強調しておきたいこととして、注意とか識別だけじゃなくて、ハートフルネスっていうのがすごく重要なんですよと。

マインドフルネスという言葉には、ハートフルネスという言葉も含まれるんですよと。

マインドフルネスという言葉を聞いて、注意とか識別だけということになってしまうと、マインドフルネスの重要な側面を見落としていることになりますよっていうのを、著者は強調してるんですよね。

そのハートフルネスっていうのは何なのかという話なんですけれども、ここで紹介されていたのは、優しさとか親切心とか、あるいは愛のこもったとか、そういう温かみのある言葉で表現されるような、人間が持っている性質で、厳密に定義するのは難しいと思うんですけども、そのハートフルネスっていうのを宿すことが、マインドフルネスの実践において実はすごく重要なんですよ、ということを強調してるんですよね。

具体的な中身については、これからのシリーズでいろんな角度から見ていくことになるかな、と思いますので、まずは今回はキーワードに触れるところだけにしておきたいと思います。

マインドフルネスとハートフルネスで、マインドとハートという言葉が出てきますよね。

どちらも日本語では「心」って訳されることが多いと思うんですよ。

このマインドとハートという言葉を使い分けるということが、日本人にとってあんまりピンとこない、と思うんですよね。

実はけっこう英語ではわりとはっきりと使い分けているみたいで、海外の方と話したりすると、マインドとハートを使い分けている節があって。

マインドっていうのは、どちらかというと理性に関わる方の心で、ハートっていうのはどちらかというともっと感情だったりとか、そういうほうの心をハートというそうです。

僕は全然英語ネイティブじゃないので、微妙なニュアンスはわからないんですけども、ざっくりそういう使い分けがなされているんですよ。

マインドの方で代表されるような、注意であったりとか、識別力だけじゃなくって、ハートの方で代表されるような、温かみのある心の性質も同時に養う、ということが大切であるというのが強調されているんですよね。

イントロダクションの中には、マインドフルネスを養うことは、究極的には愛の行為であるとさえ述べられているんですよね。究極的にはもう愛の行為。

愛ってマインドかハートかというと、ハートですよね。

僕はそう感じるんですけれども。

そういうくらいに、やっぱりハートフルネスの要素はひじょうに重要であるということなんですよね。

愛の行為というと、ちょっとなんかピンとこないという方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、僕的には愛の行為って言ってもいいし、大切にするという行為と言い換えてもいいのかなと思いました。

例えば瞑想することによって、自分自身を大切にするとか、周りの方を大切にする、あるいはもっと広い範囲の対象に対して、大切に思う気持ちを向けていくと、そういうニュアンスなのかなと、この言葉を見て思いました。

今まで述べてきたようなことを、一文で表現した文章を見つけたんですよ。

イントロダクションの中で、一文だけ抜き出すとすればこれかなと思ったんですね。

ちょっと紹介させていただきますね。ちょっと長いんですけど、僕が日本語訳しました。

「マインドフルネス、特にこの本で述べたMBSRは、新しく、体系的で、愛のこもった方法で注意を向けることで、自分自身の身体、マインド、ハート(どっちも「心」になっちゃうかと思うので英語のままにしてしまいました)、人生という領域に、より親しみ、それによって今まで気づかなかったかもしれない、あるいはなんらかの理由で今まで無視してきた、人生の大切な次元を発見するよう誘うものです。」

というふうに書かれているんですよ。

今まで僕がちょっと下手な言葉を尽くして説明してきたようなことが、じつはこうやって一つの文章にまとめてありました。大変恐縮なんですけども。(笑)

この文章に、著者がマインドフルネスやMBSRに関して大切だと思ってることが詰まっているかなと思ったんですね。

なので、良かったらもう一度これを味わっていただければいいかなと思います。

ほんとに長くなってしまったんですけれども、今回はこのあたりにしたいと思います。

この第2版のイントロダクションの最後のところに、研究成果紹介っていうところがあるんですけれども、これに関してはちょっとまた別に紹介したいと思いますので、楽しみにお待ちください。

というわけで、これで終わります。

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