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この文を「読んでいる、読んでいる…」〜 書籍「気づきと智慧のヴィパッサナー瞑想」

ブッダが悟りに至った瞑想法と聞くと、どんなにすごいものなのだろうと思わずにはいられない。

それがヴィパッサナー瞑想だという。なんだか発音しにくい瞑想法ですね。最初の音が「ヴィ」ではなく「ウィパッサナー瞑想」と訳されることもありますが。

 

そのヴィパッサナー瞑想の入門書であり、とても尊敬されているミャンマーの僧侶が書いた本が、今回ご紹介する「気づきと智慧のヴィパッサナー瞑想」(マハーシ長老著、星飛雄馬訳、㈱サンガ、2012年)だ。

 

瞑想っていうと、座っている座禅のイメージが強いけれど、歩くときや横になっているときでも、それぞれの瞑想の仕方がある。洗顔中や食事中の瞑想法もあって、もはや四六時中だ。

 

どのような姿勢の瞑想でも共通して行うことは、自分の体や心の状態を、心の中で「念じる」ことだ。

 

まるで状態にラベルを貼るような行為みたいだから、一般的には「ラベリング」と呼ばれたりもするらしい。

 

たとえば、座る瞑想のときは呼吸によるお腹の動きに合わせて、こんなふうに念じる。

 

座っている姿勢のときは、おなかの動きを
「膨らみ、縮み、膨らみ、縮み」
と念じる

 

あるいは、呼吸による動きではなくて、自分の姿勢と、あとは床や椅子やクッションなどに触れている部位の感覚を念じる方法もある。

 

座っている姿勢と触れている箇所という二つの対象を
「座っている、触れている、座っている、触れている」
と繰り返し交互に念じるようにしてください。

 

僕が実践している経験からは、呼吸の動きに意識を向けるほうが、変化があるので長く集中できる。

 

そのうえで、ときどき、体の感覚にも意識を向けることを織り交ぜると、いろんな感覚も発見できるので、好奇心が続きやすい。

 

でも、瞑想をしていると、たいてい何か考えごとが勝手に始まりますよね。

 

まるで勝手にテレビがついて、それに見入ってしまうように。

 

そんなときはこうするのだと書かれている。

 

考え事をしたときには
「考えている、考えている」
と念じてください。

 

 

心は念じられるや否や、滅します。例えば、一回や二回
「考えている、思っている」
と念じると、その意図は即座に消えうせます。

 

僕の体験では、深く集中できている状態では、考えごとが始まると、あっ考えていると直後に気づけて、考えが途切れるが、集中が浅い場合はそのまましばらくはまり込んでいくことになる。そんなときは、「考えている、考えている」と念じるのは難しい。

 

どこまで集中できているかに依りますね。

 

さて、このようなヴィパッサナー瞑想の方法だが、別の本では「ラベリング」は初心者向けの方法で、しばらくしたらやめたほうが良いとある。

 

初心者にとっては、考えること、ラベリングすること、名付けることもまた役に立ちます。しかし、しばらくしたら、それらは手放さなければなりません。それはあたかも、歩く時に、杖を使用するようなものなのです。

「自由への旅〜「マインドフルネス瞑想」実践講義」ウ・ジョーティカ著、魚川祐司訳、新潮社、2016年

 

 

以前、日本ヴィパッサナー協会が主催した10日間の瞑想合宿に参加した。
そこではゴエンカというインド系ミャンマー人が開発した指導方法によるヴィパッサナー瞑想を実践したが、言葉はあまり使わなかった。

では、僕が教えているMBSR(マインドフルネス ストレス低減法)ではどうだろうか。

 

言葉を用いた「ラベリング」はとくに推奨はされていないが、個人の向き不向きに応じて、補助的に「ラベリング」を一時使用するのも良いだろう。

 

「ラベリング」も、実際にやっていると、だんだんと言葉というには曖昧な意識になり、言葉らしき意識を伴って注意を向けているだけになってくることがある。

 

そうなると、もはや「ラベリング」という呼び方もまた「ラベル」を貼った呼称とも言える。

 

本書も一見すると言葉を使った手法に見えるが、「ラベリング」とは呼んではいない。

 

口に出して言う必要はなく、念じるとは対象に対して注意を留めることとされている。

 

言葉をどこまで鮮明に意識するかはさておき、呼吸に伴う体の動きや体の感覚に注意を向け続けること自体は、MBSRで行っている瞑想の実践(プラクティス)そのものだ。

 

そういう意味では、MBSRの瞑想方法とヴィパッサナー瞑想は共通していると言えるだろう。

ちなみに、本書では瞑想のコツの比喩がちょっとおもしろかった。
お腹の膨らみや縮みに意識を向けるときは、「石をぶつけるように」ということだ。
おそらく、それだけハッキリ意識するということなのだろう。
僕はふだんあまり石をぶつける生活を送っていないので、合っているかわからないが、このミャンマーの高僧であるマハーシ長老は、よく石をぶつけているんだろうか。何に?どうして?

比喩をもうひとつ。体の動きに意識を向けるときには、「弱った病人のように」ゆっくり動くといいらしい。
そんなふうにゆっくり動くと、たしかに細かい感覚までつかみやすいとは思うけど、なんとなく意気消沈までしかねないなあ。

 

 

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