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意識の水を注ぐ

今日は、意識の水を注ぐという話をしようと思います。

ちょっと想像してみてほしいんですけど、小さい子どもが水をコップに注ごうとするところをイメージしてください。

瓶からコップに水を注ぐ。

持ち方も拙いし、注いでる間に別のところを見たりして、もうコップの周りがめちゃめちゃになるのが想像つくじゃないですか。

小さい子どもだと、瓶の先もこうブレブレで、もうほとんど水がたまらない。

でも瓶の中のほとんどの水は、もう周りに全部散らばってしまうみたいな、そんな状況がイメージできるかと思うんですけど。

こういうもったいない話に思えるんですけど、意外と私たちも四六時中同じようなことをやってるんじゃないかっていう話をしたいなと思っていて。

 

ちょっと話が変わるんですけど、「注意」っていう言葉って、意を注ぐって書くじゃないですか。意識を注ぐって。

 

なので、水を注ぐっていうのを、意識を注ぐっていう行為に読み替えてみるとどうだろうか、っていうことをちょっと考えてみたくて。

瞑想を一度でもやったことある方はわかると思うんですけど、例えば呼吸に注意を向けていても、すぐに注意って逸れるんですよね。

別の体の場所に注意が逸れたりとか、あとは心に浮かんでくる考えとか思いに、いつのまにかとらわれていたりとか。

そういうわけで、水を注ぐっていうのは、私たちは何の苦もなくできるようなことですけど、注意を注ぐということになると、子どもみたいな感じ、あるいはそれ以下じゃないかと思うんですよね。

いつの間にか、そういうふうに、注意っていう有限の資源・・・時間っていうものは有限ですし、注意を注げる時間も有限なわけなので、それを思っている対象にほとんどのあいだ注げてないっていうことが想像がつくかなって思うんですよね。

 

一度瞑想されたことがある方は、日常生活で自分が思う対象に、ほとんど注意という水、意識という水を注げてないということに気づくかなと思うんですよ。

それって、いわば甚大な損害だなと思うんですよね。

例えて言うなら、自分が思っている水を、知らず知らず、いろんなところにこぼして回ってるような状況かなって思うんですよ。

 

ただ、この問題の場合、解決策があって、瞑想をするという方法によって、その注意や意識を注ぐ技術がうまくなっていくことができる、というのが救いなんですよね。

 

なので、有限なもの、大切な意識というものを、本当に大切なもの、例えば自分自身であるとか、身近な方であるとか、健康であるとか、そういった対象に注いでいくためにも、瞑想をぜひやりませんか、という話をしたかったということですね。



というわけで、今日はこんなところで失礼します。

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