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正解など、ない

今日のテーマなんですけども、正解などないという話をしたいと思っています。

正解って求めたくなるじゃないですか。

僕もこんな発信活動していると、どういうふうに言うのが正解なんだろう、表現するのが正解なんだろうって。

あとは、日常の例でいくと、アマゾンとかで買い物するときに、どの商品を選ぶのが正解なんだろうか、こっちは高いけど品質が良さそう、こっちは安いけどちょっと品質が落ちる。どっちが正解なんだろうみたいな、日々理由を探して、正解を探したくなってしまうと思うんですよ。

僕は、そうなんですよね。

皆さんも共感していただけるかもしれないんですけど。

でもいろいろと考えると、正解ってないなって、本当はないんだなって思っていて。

正解があるように感じるときって、やっぱり自分で何か条件を限定しているっていうことだろうなって思うんですよね。

例えば価格で比べるとこっちの方が正解とか、品質で比べるとこっちの方が正解とか、価格と品質でそれぞれ点数をつけて、それで合計してその数値が高い方が正解とか、そういう基準を設けないと正解って決められないと思うんですよ。

どんな場合もこれが正解っていうことはないと思うんですよね。

僕もですけど、よくこれが正しいに違いないと思い込んでいることってあるじゃないですか。

いろんな考えとか、自分の生き方であってもそうかもしれないし。

あとは、仕事のやり方とか、料理の作り方とかなんでもいいんですけど。

これが正しいに違いないと、自分でも気づかずに思い込んでいることってあると思うんですよね。

でもそれって、自分の性格だからそうしたいとか、そういう条件が隠れていると思うんですよね。

その正解と感じることの裏には、自分が今までの経験からすると、これが正解とか、こういう条件の下では、これが正解だっていうのが絶対あると思うんですよ。

なので、正解を探すのはいいんですけど、その時にその正解を成り立たせている条件にも気を配るって、すごい大事なのかなって思うんですよね。

学校に長く通ったりしていると、テストってあるから、何かを答えたら丸かバツで返ってくるじゃないですか。

でもその丸かバツっていうのは、その条件、セッティングというか、そのテストの中の条件で決まるものじゃないですか。

丸なのかバツなのかっていうのは、基準があるわけじゃないですか。

学校でテストを受け続けていると、その基準があるということを、いつのまにか忘れてしまって、正解っていうのが普遍的にどこかにあると思いがちになっちゃうんじゃないかなって思うんですよね。

ときどき正解のないものを一緒にやるっていうのは、すごく大事なのかなって思ったんですよね。

音楽もそうですし、図工とか、そういう正解とかじゃない領域っていうのも一緒に学校でやるっていうのは、すごく意味があることなんだろうなって思ったんですよね。

今日の話もそうなんですけど、正解なんてないと、その裏には絶対に条件があるはずだっていう話が正解だっていうのも、おかしな話なんですよね。

これはあくまで、僕の性格とか経験とかをもとに、こう話しているっていうことなので、別の考えの方ももちろんいらっしゃると思いますし。

ただ、そういうことに気づいていくっていうのが大事なのかなって思うんですよね。

瞑想の話をしてなかったんで、ちょっと瞑想に絡めておくと、瞑想って正解かどうかを決めるんじゃなくって、そのまま感じ取るということを練習していくと思うんですよね。

それが正解かどうかっていうのを考えた時点で、それは何か基準を設けてるっていうことだと思うんですよ。

なので、普段の日常生活とは違った領域を練習していくっていうことかなって思っているんですね。

そのまま、ありのままを感じると、どんなものなんだろうかって。

ふだん正解とか間違いとかいう、レッテルで見ているものを、そのレッテルで見るんじゃなくて、そのものはいったいどんなものなんだろう、そんな現象はいったいどんな現象なんだろうっていうのを、そのまま見ていくっていう、そういう行為が瞑想の一つの側面なのかなって思ったという感じですね。

いちおう「マインドフルネス講師の独り言」なので、そこも絡めておきたいと思います。

というわけで、今日はこれくらいにしたいと思います。

ありがとうございました。

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